2018年03月22日

手はどこに

武術の型を学びはじめのとき、自分の手がどこにあるのかわからないという人がいる。自分の頭はどこにあるのか、足はどこを向いているのか、掌はどこに向いているのか、右手はどこに、左足はどこに、と、自分のからだの不自由さを味わっているのですね。

練習を繰り返すほど動きは覚えられるし、さまざまな動きを体に通していくと、初めての動きにも戸惑うことなく動けるようになる。一人でも、対人でもスムーズに。

接する方々一人一人の、いわば動きの自分史を塗り替え、進化していく様を拝見するのは喜ばしい。

暴走し偏りやすい思考や感情よりも、動きはコントロールしやすい。動きを通じて自分を知る。手はここにあるよ〜(○´∀`人´∀`○)いえ〜い
posted by ゆりか at 16:46| Comment(0) | 日記

2018年03月21日

衝撃の本

わりと本が好きで、日々チョコチョコ読んでいるのですが、久々に衝撃を受けました。

柳田邦男「犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日」文春文庫

若くして自死した息子の日記や短編小説を紹介しながら、命について様々な視点で語られている。父子で語り合った沢山の芸術作品のなかで繰り返し登場し、またタイトルにもなっている「犠牲(サクリファイス)」とは、アンドレイ・タルコフスキーという映画監督の同名映画。タルコフスキーは代表も好きな監督で、勧めを受けて別の映画は見たことがあったが、この本を機に再度見直し、またサクリファイスも初めて見た。改めて、タルコフスキー映画の映像美と静かでいて根深い世界観に衝撃を受けると同時に、この本にも強烈に心を打たれました。

本からの引用(上記「犠牲」のなかで引用された、息子が好きだった大江健三郎の小説内に出てくるある宗教学者の言葉)

『indestructibility (破壊し得ないこと)』
自分がここに生きているということ、存在したということは、誰も否定できない。それが人間の破壊し得ないこと(中略)自分は病いに苦しんで、もう長く生きないかもしれないけれども、この世に生きて苦しんでいたということは誰もそれを否定できない、それをなかったことにはできないと自分は思った

何をしようがしまいが、素晴らしかろうがそうでなかろうが、生そのものが肯定であり存在そのもの。今日もよく動いた!明日も大いに体を楽しもうビバ!くうたいどう〜お〜( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆

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posted by ゆりか at 22:11| Comment(0) | 日記

つもりかも

本日はいつものレッスンがお休みで、別のお呼ばれレッスンがありました。熱心な皆さんの気持ちに応えるべく、動き回り過ぎて汗がダクダク。でも楽しかったですd=(^o^)=b

頻繁にはご指導できないので、日頃の練習の注意点として、力を抜くという本質を忘れないようにとお話ししました。動いていると、色々な気付きがあり、感覚があり、それらが面白くなってくると本質を忘れて感覚に浸ってしまうことがある。いつしか力を抜くことは「力を抜いているつもり」にすり変わってしまう。

つもりと現実は食い違うことが多い。

いつでもちょっぴり疑ってみる。

でも「つもり」の快楽に埋没するのも楽しいもんですよね(笑)
posted by ゆりか at 16:51| Comment(0) | 日記

2018年03月20日

より曖昧に

脳内の思考活動と目と耳と手の指先と足首から下

生活の中で使用頻度の高いのはこのあたりかと思う。

力を抜く武術を学んできて、全身で動く感覚を少しずつ身に付けていくと、以前は指先だけでしていたものがより全身に、視聴覚情報の受け取りも、歩行も、思考もより全身で行われるようになってゆく。

部分が全体へ分散することで、疲労も偏りも著しく軽減する。 以前はっきり感じていたものが全てより曖昧になる。曖昧になるほど、変化ははやい。集中や執着は停滞を生む。

力を抜く過程で感じられる体内の流れすら、それが明確であるほど融通がなくなり、力みを伴う。

より曖昧に、より分散した、より全体の、より変化する動きや体を目指そう。
posted by ゆりか at 13:30| Comment(0) | 日記

五味さん休み

行きつけの蕎麦屋、五味さんが突然のお休み(ToT)泣く泣くさ迷っていたところ、モスバーガーに拾われました。久しぶりにこういうのもンマイすなハート

さて、午後からもはりきって力抜いて仕事しよー
posted by ゆりか at 13:18| Comment(0) | 日記