2020年05月23日

自由人と武道家

レッスンへ向かう車中にて、自由について思いを馳せる。自由とは、自由に見える環境に身を置くことでも、好きなことでお金を稼ぐことでも、好きにできる時間が多いことでもない。自由は、内面に溢れるものである、と。

外見の私がボンヤリしていると、内面の私がこういうテーマを投げ掛けてくる。外見の私と内面の私が問答して、先の結論に至った。

だからもし、誰から見ても責任重大で、多忙で、人前に出続けなくてはならない立場の人の内面が自由なら、ものすごい自由人である。また、貧乏で、孤独で、病弱でかつ内面が自由なら、それも最強の自由人である。そんな極端な環境にいる人は少数だが、私たちは各人の置かれた環境で自由人たりうる。

私はまだそこまでの自由人ではないし、自由人よりよりよい武道家を目指している。自由人と武道家には共通点が多いが必ずしもイコールではない。

武道家には上達と成熟への確固たる道のりがあり、そこから外れないようにすることに細心の注意を払う点では不自由である。でもそこが私には楽しい。武道に関しては至極従順なのです。

本日はどんなレッスンになるかな。
posted by ゆりか at 13:31| Comment(0) | 日記

2020年05月22日

要らぬ要らぬ

レッスン前の待機中。また内面の観察に取り組んでいると、静寂はあるものの、プライベートタイムにはない高揚、ざわめきも感じる。仕事に対して軽くテンションを挙げたり、何かを意図して行う意欲は一般的には良いものとされる。が、脱力の思想を私なりに転用すると、これすら不要である。

仕事もプライベートも、全てが同じ静寂の中で行えれば、可能性はもっと広がるのだ。「こういう指導をしよう」とした時点で、対象や内容は狭く限定される。体の可能性は計り知れない。限定のない可能性を共有したい。あ、共有したい気持ちがまた沸いてるな。要らぬ要らぬ。

できるだけいつでもここには静寂がある。まだまだ遠いが、目指したい。

さて、静寂のまま、まずはレッスン前に御手洗いへ行こう。

シズシズ
posted by ゆりか at 09:37| Comment(0) | 日記

2020年05月21日

キムチ2度落とす

キムチを台所で2度も落としたことがあるでしょうか。先日、自主練習直後にキムチを冷蔵庫から取り出すと、予想以上の腕の疲労で手がもつれてパックごと床に落下させる。

軽くこぼれたのを拭き取ってシンク横に置こうとするも、また掴みきれずにシンク内部にぶちまける。今回は蓋も開け放たれ天地逆転状態。

結局、残り少ないおいしいキムチにはありつけずに終わりました。最後のほうの酸味出たくらいのが好きなのに((T_T))

立禅終えた今現在も、トイレ動作で悶絶した上、携帯持つ手が重い。タブレットはもはや持ち上げを拒否している。

またやりすぎちった。てへ
posted by ゆりか at 23:20| Comment(0) | 日記

できることをしない

できることをしない

という言葉は先日たまたま目にした養老孟司さんの言葉。「できることをやる」思想は、科学技術の武器転用や、子をダメにする過保護な親を生む。養老孟司さんの言葉にはやはり、野口三千三さんの脱力思想を感じる。

代表がたまに言うのは、こと脱力の武道、空体道で言えば、高い身体能力や身につけた戦闘技術が動きの質向上の邪魔をすることがあると。能力や技術で「できて」しまうからだ。 今できることをやりこんでも、能力や技術には限界が来る。体格や性別や年齢の限界だ。小成は大成を妨げる、と何度も話してくれた。

だからこそできることを封印して質を磨く。代表は元々身体能力が高く戦闘技術もハイレベルだったので、ゼロから身につけている私とは違う苦悩があったと推察できる。できることをしないのは、はじめからできないより時に苦しいもの。

多少強引でもかかる技を、あえてかけずに脱力する。
筋力で補ってできる動きを、あえてしないで脱力する。
技術でカバーできる状況で、あえて技術を使わず脱力する。

これらを我慢強く繰り返すと、相手の隙とか、無意識のタイミングとか、何より全身の重さによる動きが少しずつ見えてくる。

そうして培われた衰えにくい代表の動きの質を、家庭内練習でも日々体感する。今は私にも、多少出来ることが増えているが、だからこそ「しない」ことに慎重に取り組んでいく。

武道は本当におもしろいです。
posted by ゆりか at 22:22| Comment(0) | 日記

2020年05月20日

安定

大して練習してないのに、なんか筋肉痛がひどいなあと、この数日不思議でいました。よくよく考えると、無意識に長時間やっていると気づきました。

立禅なり自由舞なり、やるのが習慣になっていて、気がついたら自粛以前はしなかったほどしているものです。

習慣とは恐ろしい。同時に習慣とは素晴らしい人間の能力ですね。

練習と自己観察が習慣になり、より平安を得ています。大学時代から考えていた問題に、私なりにひとつの答えを見つけました。教育には家庭教育・学校教育・社会教育とありますが、そのいずれにも欠かすべからざるよりよい教育とは、構成する大人の精神が安定していること。全員でなくとも安定した人間がいること。※私はまだ私の思う安定した人間には至りませんが目指してはいます。

精神の安定は無感覚や無感動ではなく、ある平安な意識状態を体得していて、いつでもそこに戻れる強い方向性があることと考えられます。

私に都合のいい解釈をしているだけかもしれませんけどね。

さて、ワンコの時間です!
posted by ゆりか at 14:36| Comment(0) | 日記