2020年06月02日

応用してみる

ちと危険な試みですが、ドストエフスキーから得た気付きを武道に当てはめて検討します。

脱力の武道の根本思想には、人間には本来、完成した動きかたが備わっている、というものがあります。今あるものの上にくっつけて加えていくのではなく、余分を取り除いていくことで本来の力を発揮する、と。

脱力が難しいのは、脱力せずに生きてきた過去の経験に照らして判断するからです。過去の経験が良くも悪くもその人の体への意識に深い刷り込みを与えます。

運動が苦手だった
こうしたら昔うまくいった
頑張らないとちゃんとできない
そのままでいいはずがない

そんな刷り込みが、心身を頑なにしていく。そこでドストエフスキー。赦しを与える。体に対して自分に対して「昔はこうだった」、「こうしないといけない」あらゆる縛りを赦し解き放つ。

脱力の武道が精神面と密接なのはこういう理由です。相手がいようがいまいが、今ある自分の体や動きを完全に受け入れることが脱力による統一、重力との統一への方法のひとつ。

やべ〜!変人全開か!?大丈夫かなあたし?嫌われない?ねえ!ねえ!

という小市民的不安感も赦し受け入れ、レッスンへ向かいます。

m(_ _)m
posted by ゆりか at 13:45| Comment(0) | 日記

鳥と赦し

ドストエフスキーの圧巻の長編を読み終えた今朝のワンコ散歩。キリスト教の根本には赦し(ゆるし)があるのだと受け取りました。清らかなる精神には、森羅万象、自身や他人のあらゆる行いに対して赦しを見いだし、また与えることができるのかもしれない、と、目の前にいた雀にも赦しを思う。

坂を上り、公園へ向かう途中に我が愛車を見ると、屋根にドップリ鳥の糞。日頃からセルフ洗車とセルフコーティングに勤しんでいる私は思わず

鳥め〜!

と呟く。20秒前に、雀に赦しを見いだしていた人間が、20秒後に鳥に怒りを覚える。なんとも人間らしい自己矛盾、と笑えました。

個人が偽りなく自己洞察に尽力し、人格を高める努力を怠らない上に、望ましい社会が形成されるのだという強い確信を、小説から得ました。私はクリスチャンではありませんが、その思いには完全に賛同します。武道を通じて、そう生きようと思っています。ただ、人にそれを求めようとは思いません。鳥をゆるし、怒った自分をゆるし、厳かに車の屋根を洗車して参りました_(._.)_(笑)
posted by ゆりか at 10:37| Comment(0) | 日記