2021年10月30日

やはり変わるか

レッスン前にじっくり公園自主練習をしました。立禅、養身法、歩行法、まではかなり重さが落ちてまとまりますが、空法で後半にいくほど薄まってしまう。まだまだ落ちた体が深く身に付いてない証です。内転、外転手くらいまでは重いんだけどなあ〜。だんだん打つ動きや回転にとらわれてしまう。

あと・・・銀杏が臭いわあ〜(*_*;
posted by ゆりか at 10:45| Comment(0) | 日記

2021年10月29日

好ましい

好きで見ているあるユーチューバーが、ストレス度合いを数値化する検査をすることになったという。一般的なサラリーマンが30位の数値として、犬が確か5、それ以下は蛙などと基準を説明されたそう。そのユーチューバー、私と同世代の男性で、あまり他者からの承認を要しているように見えない不思議な自由をまとった人物。計測結果、ストレス指数は3程度と言われたらしい。犬よりストレスのない中年男性。非常に好ましい。検査方法がどうとか、そもそもストレスを数値化できるのかなどはさておき、日頃動画ごしに見える人柄ならばその数値もあり得ると感じさせるとこがすごい。

話は変わり、ある仕事場の職員男性。ふいにこんなことを話してくれた。

一時期、何で俺はやる気が出ないんだろうと悩んだ。どうしたらやる気が出るだろうとも考えた。でもある時に気がついた。ああ、俺にはそもそもやる気がないんだ。そりゃ出るわけない、と納得した、と。

こちらもまた非常に好ましい、清々しい考察結果だ。

今日も平和だなあー( ̄ー ̄)
posted by ゆりか at 09:37| Comment(0) | 日記

2021年10月28日

生きて死ぬ智慧

1635397655706.jpgもうすぐ祖父の命日だから思い出したのか、ふと般若心経を唱えたくなりこの本を開いた。

この本は代表の薦めで10年前位に出会った。般若心経の訳を書いた著者の柳澤桂子さんは科学者で、30年以上相当に苦しい難病と共に生きておられる。そんな著者だからこそ、この訳が染みる。以下引用

「空」の心をもつ人は迷いがあっても迷いがないときとおなじ心でいられるからです(中略)
永遠のいのちに目覚めた人は苦のなかにいて苦のままで幸せに生きることができるのです

健康法が行き過ぎると、不健康が害悪で、すべての病は怠慢や悪癖からもたらされる、という思想に結び付きやすい。自分でどうにかなる病もあれば、どうにもならない病もあり、それと共存していくのが人生だ。

私には今のところ病はないし、今の武術で昔の体調不良はなくなっているが、それは個人の問題で、皆がそうなると押し付けるのは間違いだと考えている。

病や苦がありながらも幸せに生きることができる

というこの訳が好きだ。こういう考え方は私には脱力と通じている。何がなくてはならない、何があってはならない、という考えから脱却し、いつも今この瞬間に力を抜く、その繰り返しがもたらす質の変化を体験してまた、この本の受け取り方が変わった気がする。
posted by ゆりか at 14:30| Comment(0) | 日記

2021年10月26日

形のない重さ

日頃対練で思うことだが、部分的筋力の緊張を伴う力には、力の方向や形をはっきり感じる。対して力みの少ない、重さの圧には方向や形がない。

部分的筋力の緊張でも体格や筋力に優れた人からは大きな圧が来るからそれも耐え難いのだが、私の体で耐えられる範囲の場合ならその方向と形に沿って抵抗できる。が、形のない重さは、きた瞬間からとらえどころ、頼るべき何かを感じないから、非常に抵抗がしづらい。ま、あえて形に表現するなら巨大な球体なんだろうが、引っ掛かりがない球体の形状は、非常に抗いにくい。

形のないまま重さが増していくと、ただただ巨大な何かが来る、という感じで、パンチの拳を逸らせばいいとか、足をすかして投げを回避すればいい、というわけにはいかなくなる。触れたら、触れられたところに巨大な何かが来るから、回避のしようがない。

代表が屈強な黒帯仲間に突きを入れるのを端から見ていて最近、浅間山荘事件の巨大な鉄球で建物を破壊するニュース映像が頭に浮かぶ。

代表は巨大な鉄球だ。

絶対に打たれたくない・・・(*_*;
posted by ゆりか at 18:54| Comment(0) | 日記

2021年10月25日

体質と対応力

脱力により体質を根本から変えることと、様々な状況に対応する力をつけるのは同時進行の二つのことだと考えていたが、今はひとつのことだと理解している。

ある動きをするにあたり、脱力が進むほどそれに備わる重さ(威力)は打撃にも投げにも働き、至近距離でも中間距離でも、攻撃にも防御にも効く。相手の受け方、避けかた、攻撃の仕方の千差万別の状況にも、脱力が進むほど体が勝手に対応する。

勿論、脱力が相当進むまでには様々な対人稽古を重ねているから経験で身に付くのだけど「こうならこうだ」と理屈で把握する必要はあまりない。知らなければ対応できない、というものではないんだな。

脱力の体は、脱力の考え方とも一致してきて「かくあるべし」というものが減るのだと思う。脱力の体も、脱力の考え方も「気づけばなっているもの」で、追い求めていた時期ほど遠い存在だった。気づけばここにある。脱力とは、ままならない、予想を裏切る、偶然のような、理屈ではない、そういうものなんだな。経験を重ねてきて、また違う意味で脱力を理解している。

今後も追い求めるよりただただ毎日こつこつ、力を抜いて立つ、歩く、動く、止まる、を繰り返していく。深まるのは必然のようだ。
posted by ゆりか at 10:21| Comment(0) | 日記