2020年05月28日

ゆりあ

本日レッスン先にて「ゆりあちゃん」と声をかけられる。正確には「ゆりかちゃん」なのですが、夫も「ケン」なので「ユリア」に違和感がない。脳内では完全に私の顔が原哲夫に描かれている状態で、名前の訂正はせず、笑顔で挨拶を返しました。

相変わらず私は90代男性に(90代女性にも)モテるなぁ・・・♪ヾ(●´∀`●)ノ
posted by ゆりか at 17:15| Comment(0) | 日記

動くと失われる

昨晩から、精神の静寂のまま動けるか試しています。結論は、難しい。動く度に、こう動いた方がいい、こうしたらより力が抜ける、ふいに用法を思い付く等々、様々な思考が脳内を去来する。たぶん本当に脱力の心身が身に付いたら、そんなことすら起きずにただ動く。

木鶏とか猫の妙術、名人伝のごとき無為自然にはほど遠い。

ただし、一人でゆったり過ごしている時のあの静寂はよい。あれを動いても人がいても攻撃を受けても怪我しても、ゆくゆくは死に際しても味わえるなら、私にとって理想的人生この上ない。この自粛中で多くの静寂を味わった。これからまた仕事は増えていくが、今回得たものを糧に、脱力の心身を深める所存だ。
posted by ゆりか at 13:37| Comment(0) | 日記

2020年05月27日

脱力の対義には

この数日は、より内面の観察に時間を費やしました。以前とはまた少し違う静寂を味わっています。より地に足のついた、一時的ではない感じがします。そして均一な感じ。

これは、立禅やその後の動きのなかで感じる体内感覚と似ています。比べてみると、忙しさとか、相手の動きや環境や雰囲気に、なんと心身が乱れていたかがわかります。

脱力には、緊張という対義イメージがありますが、そこには騒々しさ、慌ただしさ、不均一、ムラ、アラ、カド、バタバタ、そんな全てが含まれる。

時間を費やしてようやくこの数日味わっている内面の静寂は、たぶん非常に良い。まず気持ちが味わっているので、今晩はこの気持ちと動きがどうリンクするか試してみようと思います。

明日のレッスンでは、他人様のいる環境で心身がどう変化するのかをまた観察してみたいです。
posted by ゆりか at 16:45| Comment(0) | 日記

2020年05月23日

自由人と武道家

レッスンへ向かう車中にて、自由について思いを馳せる。自由とは、自由に見える環境に身を置くことでも、好きなことでお金を稼ぐことでも、好きにできる時間が多いことでもない。自由は、内面に溢れるものである、と。

外見の私がボンヤリしていると、内面の私がこういうテーマを投げ掛けてくる。外見の私と内面の私が問答して、先の結論に至った。

だからもし、誰から見ても責任重大で、多忙で、人前に出続けなくてはならない立場の人の内面が自由なら、ものすごい自由人である。また、貧乏で、孤独で、病弱でかつ内面が自由なら、それも最強の自由人である。そんな極端な環境にいる人は少数だが、私たちは各人の置かれた環境で自由人たりうる。

私はまだそこまでの自由人ではないし、自由人よりよりよい武道家を目指している。自由人と武道家には共通点が多いが必ずしもイコールではない。

武道家には上達と成熟への確固たる道のりがあり、そこから外れないようにすることに細心の注意を払う点では不自由である。でもそこが私には楽しい。武道に関しては至極従順なのです。

本日はどんなレッスンになるかな。
posted by ゆりか at 13:31| Comment(0) | 日記

2020年05月22日

要らぬ要らぬ

レッスン前の待機中。また内面の観察に取り組んでいると、静寂はあるものの、プライベートタイムにはない高揚、ざわめきも感じる。仕事に対して軽くテンションを挙げたり、何かを意図して行う意欲は一般的には良いものとされる。が、脱力の思想を私なりに転用すると、これすら不要である。

仕事もプライベートも、全てが同じ静寂の中で行えれば、可能性はもっと広がるのだ。「こういう指導をしよう」とした時点で、対象や内容は狭く限定される。体の可能性は計り知れない。限定のない可能性を共有したい。あ、共有したい気持ちがまた沸いてるな。要らぬ要らぬ。

できるだけいつでもここには静寂がある。まだまだ遠いが、目指したい。

さて、静寂のまま、まずはレッスン前に御手洗いへ行こう。

シズシズ
posted by ゆりか at 09:37| Comment(0) | 日記